コーカサスへの旅② <アルメニア ノアの方舟伝説のアララト山とは>

らく~ん沢木


■序章:前回までのあらすじと道程

以下の三ヶ国、アゼルバイジャン・アルメニア・ジョージア、いわうる「コーカサス」を2017年に旅した記録である。
中東御三家のひとつ、カタール航空の格安航空券を使って、カスピ海を横目にアゼルバイジャンの首都バクーに降り立った。まだまだ観光未発展の国だが、油の温泉や岩絵、そして新旧の文化が交錯するバクーを短期間の割には満喫できた。何よりも気さくなアゼルバイジャン人の印象が残った。

 バクーからが国際夜行列車でジョージアの首都トビリシに移動し、そのままアルメニアまで移動してしまおうという作戦。その理由は、帰路の航空券がトビリシ発なので、どうせ後でゆっくり観光すれば良いやという気軽なものと、どうせ移動日ならば行けるところまで行ってしまおうという単純な考えであった。

■ジョージア経由アルメニアへ

ジョージア⇔アルメニア間を走る国際マルシュルートカ。この車ごと国境を越える
『アゼルバイジャン・バクー発、ジョージア・トビリシ行き』の国際夜行列車は、35分遅れで到着した(かなり優秀!)。プラットホームの数は少ないものの、駅舎はソコソコの大きさで、駅ビルとしてテナントも入っているトビリシ駅では旅人のお決まりの仕事が待っている。

①現地通貨に両替、②歯磨き・洗顔等、③駅の上階にあるフードコートで遅めの朝食。
以上を済ませて、早速アルメニアに向かう事にした。

コーカサス3ヶ国の旅のハイライトとも言えるジョージアは、帰路の飛行機に乗るために嫌が追うでも戻って来るので、少しでも先に進んでおきたかったのだ。これが座席での夜行列車の移動を終えたばかりだったら、心身共に疲れていて少しばかしトビリシで休んでから翌日以降に向かうのだろうが、今回の移動は寝台列車で横になれたので元気一杯なのである。

 情報によるとトビリシ駅前から、乗り合いミニバスが出ているとのこと。東欧や中央アジアの旧ロシアの影響国ではお馴染みの『マルシュルートカ(Marshrutkyと書く)』だが、この乗り物の最大の問題は『始発駅では満杯にならないと出発しない』ということ。もしも急いで出発して欲しい場合は、残席分を一括購入すれば喜んで出発してくれるが、庶民やバックパッカーはどこかのテレビ局(よく日本人を探しに行く番組がありますよね!)と違い、じっと人数が集まるまで暑さ・寒さ・疲労・イラダチに耐えて待つしかないのだ。余談になるが、20年以上前に西アフリカで同様の乗り合い小型バスの人数がなかなか集まらなく、結局その日はキャンセルになったことさえもあるシロモノである。
 
トビリシからアルメニア方面行きのマルシュルートカは、実際に存在と乗り場は確認できただが、40℃近くの酷暑の中で3時間待っても客が集まらない事が判明し(この間にどれだけアイスを食べて、ジュースを飲んだ事か…)、急遽タクシーを拾って数キロ離れた別の乗り場に移動して出発地を変えた。ここの乗り場では続々と人が集まり、到着してわずか30分程度で出発したので、最初からメインの乗り場に移動すれば良かったのだと少し反省と後悔。
 
このマルシュルートカには後部座席の真ん中に座ったものの、僕の左横に座った海外帰りのアルメニア人がずっと咳き込んでいて、ラクダと接触すると感染するというMERS(中東呼吸器症候群)ではないかと疑ってしまう位のひどい咳を最初から最後までしていた。

実際は違ったのだが、この日以降から旅行中だけでなく帰国してからも僕自身の咳が止まらず数ヶ月病院通いとなるとは思わなかった。
このアルメニア人から何かしらの菌かウイルスを感染したように思われるのだが、病名は不明のままであった(肺炎、肺がん、結核の検査はもちろん行った)。

■アルメニアの首都エレヴァン

アルメニア・エレヴァン市内から眺められるアララト山
日本人はアルメニア入国の際にVISA取得が必要で(【注】)、運悪く係官が昼休みで不在中もあり入国にかなりの時間を要してしまい、少しでも急ぎたい他の乗客に大迷惑をかけてしまい、乗客や運転手に平謝りだったものの国境手続きの時間を入れても約6時間でアルメニアの首都エレヴァンに到着できるスピード越境だった。

既に時計は20時前だったが緯度も高く6月30日と夏至に近い時期なので空は明るい。ジョージア国境からは2000m級の山を越えた際には寒いくらいの気温も、平地のこの街はバクーやトビリシに負けない暑さだが、やはり同様に湿度が少なめで夕方以降は快適となる。
 
街に入る前の車中から遠くに『アララト山』を眺められた。関東在住の人が富士山を眺めるのと何となく雰囲気が似ているのでは?とその時は考えていたが、アルメニア人とアララト山には深く悲しい歴史が刻まれている事を後々知ることになる。


 

エレヴァンでの宿はネットで予約をしておいた。地下鉄駅からも5分強、バス停も近く24時間のスーパーマーケットもあり、その中に両替所(レートも良い)も併設されており、申し分の無いロケーションだ。
宿が地下鉄の駅が近い事だけは事前に把握していたが、後半は着いてから教えてもらった。ちなみにホテルの名前は『My Hotel Yerevan』という名前。かなり分かりにくい場所にあるが、静かで、朝食も美味しく、新しいだけに建物も部屋もきれいだった。

 このホテル、予約サイトの『Booking.com』で宿泊当事での評価が『9.0』と超高評価だったが、現在では更に『9.2』まで上っており、個人的にもかなりオススメの宿と言える。2名で4~5千円台が一般的な料金でお手頃だ


  ※エレヴァン市内からもアララト山を眺望できる

 【注】2018年より日本人はNon-Visaでアルメニアの入国が可能なった

■アルメニア・エレヴァンの治安について

エレヴァンの街並みは比較的に新しく、「歴史を感じられない南ヨーロッパ」と言ったところだろうか。
この街で最も驚いたのが、洒落たカフェの外席に僕等はよく座ってお茶や食事をしていたが、目の前にやって来たアルメニア人が女子会のような雰囲気で席を確保し、何とバッグを座席に置いたまま全員で注文しに行ってしまった事だ。日本ではよく見る一幕も、海外ではこのような行為は治安的に皆無に等しく、旅をし始め30年目にして初めて見た光景だった。
実際にコーカサス地域全般に首都であっても相当治安が良く、特にエレヴァンでは夜歩きも全く問題なく、事前に勉強せずに訪れてしまったので面食らってしまった。
 治安が良い大都市の首都と言えば台北やシンガポール(荷物を全部盗まれた事はあるが)が代表的かと思っていたが、個人的には「治安の良いと思われる都市」の第1位がまさかの『エレヴァン』となってしまった。

アララト山とアルメニア人大虐殺

アルメニア虐殺記念館の展示は写真撮影自由と寛大
アルメニアでは『アララト山』を眺める他に、どうしても『アルメニア虐殺記念館』だけは訪れたかった。自身の記憶を辿ると、独立記念館(韓国)、「ツールスレーン」「キリングフィールド」(カンボジア)、「アウシュビッツ」(ポーランド)、「ホーチミン戦争証跡博物館」(ベトナム)、「サラエボ博物館」(ボスニア・フェルツエコビナ)、名前は忘れたがラオスやタイでも訪れており、今記憶を辿って行くと、戦争関係の博物館は結構好んで足を運んでいる。単に興味だけではなく、悲惨な歴史からこそ現在のその国の顔が見えてくると勝手に考えている。

 基本を押さえておくが、『アララト山』は現在トルコ領にある。
皆さんがご存知なのは旧約聖書に登場する「ノアの方舟」ではなかろうか?神が選び抜いた人と動物を乗せて洪水後に辿り着いた場所こそ『アララト山』と言われている。実際に19世紀にノアの方舟の残骸が発見されたと言う。
 そんな伝説の山だが、トルコ人とアルメニア人との悲惨な歴史を繰り広げた場所でもある。

元々は『アララト山』周辺にはアルメニア人が住んでいた。オスマントルコ帝国時代(1299-1922年)にはトルコ人とアルメニア人が混ざって暮らしている。しかし、オスマントルコ末期にアルメニア人抹殺事件が起きており、『アララト山』周辺にはアルメニア人が全く存在していない状態となってしまった。現在のトルコ政府やアメリカ政府はこの抹殺・虐殺を否定しているが、記録には最低100万人、実際には150万人の殺害があったと言われている。


この大虐殺の事実を残していこうと開設されたのが『アルメニア虐殺記念館』なのである。現在に至ってもトルコとの確執は無くならず、未だに国境を接しながらも通行・通商は断絶されている。
http://www.genocide-museum.am/eng/
 
 記念館の中は写真の展示も英語での解説がされており、ビデオでの展示もあり見学しやすい。今回アルメニアに行こうと決めるまで、アルメニア人の大虐殺の事実は知らなかったし、トルコに旅した際には微塵も知ることはなかった自分が恥ずかしい。
自分が旅した国の歴史くらいは最低本を読んだりするのだが、トルコでは事実を否定しているので、読んだ本にも記される事はなかったのだ。

その国に旅して「食事が美味しい」「人が親切」だけで片付けては旅した意味が無いのかもしれないと忸怩たる思いにかられた時間となった。

(写真コメント)
※館内は写真撮影可。残虐な写真も多数

■遥かなるアララト山

下部に見られる柵はトルコとの国境線。アルメニア人にとってアララト山は近くて遠い
現トルコ領の『アララト山』はアルメニア人にとって大虐殺を忘れる事ができない象徴でもある。首都・エレヴァンの丘の上に建つ虐殺記念館からは夏場でも万年雪が残る美しいアララト山が眺められる。もちろん街中からでも隙間があれば遠くに見る事ができ、それはまるで東京から見る富士山と変わらない。しかし、悲しい歴史を背負ったアララト山はアルメニア人の心の拠り所でもある。

 トルコ国境間際の場所にアララト山を眺める事ができる場所がある。地下鉄とバスを乗り継いで、エレヴァンの南東方向に「ホル・ヴィラップ修道院」という場所がある。アルメニア側からアララト山を撮られた写真では、必ずこの修道院がバックに写っている建物であるが、目と鼻の先にトルコ国境がある。高台に登ってみると美しいアララト山よりも、国境沿いに防護柵が遥か遠くまで続いている事に心が打たれた。
 
たまたまアララト山をバックに僕自身の写真を撮ってもらった人が海外に住むアルメニア人だった。大虐殺の際に海外に逃げた曾孫の世代に当たるそうで、普段は政治や歴史の話しを持ち出すのは避けていたが、僕が疑問に思っていた「アララト山についての思い」「トルコについて」をつたない英語で尋ねてみた。トルコについては余り話したくなさそうだったので僕も改めて話しは求めなかったが、やはりアララト山は特別なものだという。「大虐殺の象徴」であり「故郷への郷愁」でもあるとのことだ。

 何日かアルメニアを離れるまで『アララト山』と『大虐殺』に想いを募らせたが、やはり日本人が「神の山」と思い、そして眺める富士山とは全く訳が違うのだ。もしも僕がアルメニア人だったのなら、恨みをずっと持ち続けて生きるのか、はたまた過去の出来事で終わらせるのか、真のアルメニア人の気持ちはわからないままであった。
 
間近でアララト山を眺められる場所から、ローカルバスと地下鉄を乗り継いでエレヴァンに戻った。その日の夜になるとエレヴァンの街並みでは、毎夜行われる噴水ショーに歓声を上げ、まるでヨーロッパと間違えてしまいそうな雰囲気のカフェでは若者が楽しそうに語り合う姿を見ると、どこの国の人々でも今を生きる事が一番大切なのかもしれないと何だかホッとした自分がいた。

■レヴァンの寿司の話し

日本では超マイナーの国のひとつでもあるアルメニアだが、寿司が地元でメジャーだった事には少々驚いた。「寿司が」と書いたのにはそれなりに理由があり、日本料理店は多数見掛けたが、日本人経営の日本料理店を除き、「寿司」以外の日本料理をほとんど見かけていない。
「ターシャピザ」(Tashir Pizza)というファミレス風のチェーン店は地下街や駅ビルにもあって気軽に入れる。ピザ(かなり安い!)がメインだが、スパゲティーやサンドウイッチ、寿司も食べられて大変重宝した。寿司の種類は多かったがやはり日本食は寿司だけであった。予想もしなかったアルメニアで寿司を食べられただけ有難かった。

■アルメニアの旅を終えて(二話のまとめ)

左の山が小アララト、雪が覆っているのが大アララト
『コーカサス』3ヶ国をひとくくりにしてしまうが、一話のアゼルバイジャンと二話のアルメニアでは全く異なる事を知った。
「超」のつくソフトなイスラム教国であったアゼルバイジャンと、キリスト教国だけでも異なるが、前者が石油で潤って新しいビルが建ち始めているのに比べ、後者は世界で最初のキリスト教国家であり、過去の歴史に癒えていない違いも感じた。

 旅人からすればアゼルバイジャンは中東+中央アジアを足したような国で、イスラム教の国民独特の親しみやすさがあった。それに比べてアルメニアはほとんどヨーロッパの雰囲気に近い。伝統のあるキリスト教国が、歴史的な建造物も一部の教会以外は目立たなく、逆に新しく誕生した国ではなかろうかとも錯覚してしまうくらい街並みは美しく、車窓から見える景色も山々が連なり中央ヨーロッパとも何となく似ている。


自分自身の中では知らなかった『アララト山』の歴史の知識も得られた。その反面、「知らない」という恥ずべき自分を見つめ直せる旅だったかもしれない。

一週間滞在したアルメニアを後に、乗り合いミニバスのマルシュルートカに再び乗車して、ワイン発祥の地・ジョージアに改めて向かうとする。

(コーカサスの旅③に続く)


(写真コメント) 
※トルコ国境から眺められる小アララト(左の小さめの山)、と大アララト
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